ハリー・ラルストン・ブラック(Harry Ralston "Bud" Black , 1957年6月30日 - )はアメリカ合衆国・カリフォルニア州サンマテオ郡サンマテオ出身のプロ野球監督、元プロ野球選手(投手)。左投左打。
過去40年間で現役時代に100勝以上あげた投手出身の監督は、ボブ・レモン(通算207勝)、ラリー・ダーカー(通算139勝)に次ぐ3人目である。
経歴
プロ入り前
南カリフォルニアで育ったブラックはワシントン州のローワー・コロンビア州立短期大学在学中の1977年1月、1次ドラフト3巡目(全体61位)でサンフランシスコ・ジャイアンツから指名されるが契約はせず、さらに6月の2次ドラフト2巡目(全体44位)でニューヨーク・メッツから指名された時にも契約はしなかった。
プロ入りとマリナーズ時代
故郷カリフォルニアのサンディエゴ州立大学編入後の1979年のMLBドラフト17巡目(全体417位)でシアトル・マリナーズからで指名され入団、プロとしてのキャリアをスタートさせる。この年は傘下のA-級ビリンガム・マリナーズ、A級サンノゼ・ミッションズで19試合に登板、先発は2試合と中継ぎでの起用が主であった。1980年はA級サンノゼで32試合に登板、この年も先発は5試合であった。1981年はAA級リン・セイラーズで22試合に登板、先発・中継ぎ・クローザーと様々な起用をされた。9月5日にセプテンバー・コールアップでメジャーに初昇格するが、敗戦処理で2試合に登板しただけであった。
ロイヤルズ時代
1982年3月2日、前年10月に行ったトレードの後日交換選手としてカンザスシティ・ロイヤルズに移籍する。開幕はメジャーで迎えたが、敗戦処理で1イニング投げた後に傘下のAAA級オマハ・ロイヤルズへ降格。しかしそこで4試合に先発し、防御率2.48・3完投・1完封の好成績で4月18日に昇格。先発・中継ぎで22試合に登板した。1983年は開幕当初はAAA級オマハであったが、5月25日に昇格後は先発ローテーションを守り初の2ケタ勝利をあげる。1984年は自己最多となる17勝をあげ、エースとして活躍、チームのア・リーグ西地区優勝に貢献した。先発陣の中では防御率、勝ち星、投球回、奪三振でチーム1位であった。1985年は15敗と負けが先行してしまったが、チームはア・リーグ西地区連続優勝。リーグチャンピオンシップシリーズでは3試合に登板し、防御率1.69とトロント・ブルージェイズを完璧におさえ、チームは4勝3敗でリーグ優勝を果たす。セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズでは2試合に登板し、防御率5.06と結果は残せなかったが、チームは4勝3敗で勝利し1969年の球団創設以来初のワールドシリーズ制覇となった。1986年は開幕から先発で打ち込まれたことと、ダン・クイゼンベリーの不調などもあり、中継ぎ・抑えでの登板が主となった。1987年は先発・中継ぎ、1988年は中継ぎで投げていた。
インディアンス時代
1988年6月3日にパット・タブラーとのトレードで、クリーブランド・インディアンスに移籍する。インディアンス移籍後も先発・中継ぎで投げていたが、防御率は5点台と低調な成績に終わった。1989年は1985年以来、久々に1年間を先発で過ごし二桁勝利をあげ、イニングもチーム最多と活躍した。
ブルージェイズ時代
1990年はシーズン終盤の9月16日にトロント・ブルージェイズに3選手との交換でトレードされる。チームはボストン・レッドソックスを猛追していたが、2ゲーム差で優勝をのがした。
ジャイアンツ時代
1990年のシーズン終了後はFAとなっていたが、11月9日にサンフランシスコ・ジャイアンツと4年総額1,000万ドルで契約した。だがこの契約には34歳という高齢や、それまでの通算成績が9年間で83勝82敗と平凡なものであること、ずっとローテーションを守れてもいなかったことで高額すぎるとの批判も多かった。批判を払拭するかのように1991年、1992年は二桁勝利をあげ面目は保ったが、その後は1993年から1994年にかけての怪我に悩まされ、登板機会は激減した。4年契約を満了してFAとなった。
現役引退後
1995年4月25日にインディアンスと契約する。ここでも調子は戻らず7月14日に引退した。
1996年、1997年と1999年はインディアンスのGM特別補佐として働き、1998年はインディアンス傘下のAAA級バッファロー・バイソンズで投手コーチをしていた。
11月24日にアナハイム・エンゼルスの投手コーチに就任。2000年からメジャーでのコーチキャリアがスタートした。ジョン・ラッキー、アービン・サンタナ、ジェレッド・ウィーバー、ブレンダン・ドネリー、スコット・シールズ、フランシスコ・ロドリゲスらを育て上げ、2006年までの7年間で5回リーグ5位以内に入り、2002年にはワールドシリーズ制覇を成し遂げた投手陣を育成した手腕は、大いに評価された。
2006年オフにはオークランド・アスレチックス、ジャイアンツ、サンディエゴ・パドレスの監督候補として名が挙がっていたが、11月8日にパドレスの6人の候補者の中から選ばれ監督に就任することが発表された。サンディエゴ州立大時代のチームメイト、殿堂入りの名選手でありパドレスの英雄でもあるトニー・グウィンも、この決定に歓迎するコメントを寄せた。
監督1年目として迎えた2007年のシーズンは最後まで混戦であったが、最終的には首位のアリゾナ・ダイヤモンドバックスと1.5ゲーム差のナ・リーグ西地区3位でシーズンを終えた。しかしチーム打率がリーグ16チーム中15位の.251という貧打の中、チーム防御率は1位の3.70、前年防御率4点台と不振であったジェイク・ピービーを復調させサイ・ヤング賞を受賞させるなど、1年目としては合格点を与えられる結果を残した。
2010年シーズンには一部では最下位に終わると予想していたが、投手陣と守備陣が大健闘し、久々の地区優勝もあると思われていたが終盤に失速し、ジャイアンツに追い抜かれ2位に終わるも、最後まで守り抜く野球が評価され、この年の最優秀監督賞を受賞した。
2015年6月15日、成績不振を理由にパドレスの監督を解任された。
2015年10月28日、2016年シーズンよりワシントン・ナショナルズの監督に就任する事が発表されたが、契約面で合意に至らず、新監督にはダスティ・ベイカーが就任した。
2016年11月7日、2017年シーズンよりコロラド・ロッキーズの新監督に就任することが発表された。
2017年シーズン、2010年を最後に勝率5割以上から遠ざかっていたロッキーズを勝率.537地区3位の成績で2009年以来8年振りのワイルドカードで球団史上4度目のポストシーズン進出に導く。
プレースタイル
現役時代は多彩な変化球で打者を翻弄する投球スタイルであった。
人物・エピソード
少年達が野球をプレー中に怪我をしないための、正しい投球法を教える活動にも参加している。
詳細情報
年度別投手成績
- 各年度の太字はリーグ最高
- 「-」は記録なし
年度別守備成績
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績 (MLB)
- 2022年度シーズン終了時
- 太字は最優秀監督賞受賞
背番号
- 36(1981年)
- 40(1982年 - 1989年、1991年 - 1995年)
- 35(1990年)
- 24(2000年 - 2006年)
- 20(2007年 - 2015年)
- 10(2017年 - )
脚注
関連項目
- メジャーリーグベースボールの選手一覧 B
- メジャーリーグベースボールの監督一覧
- サンディエゴ・パドレスの歴代監督一覧
- コロラド・ロッキーズの歴代監督一覧
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 監督の通算成績と情報 Baseball-reference.com




